臓器移植医療の技術について

 

 臓器移植医療の技術の質そのものを問う論者もいる。わが国の渡部氏や廣澤氏はそういった論者に類別できる。

 渡部の論点は、移植医療が他者の犠牲を必要としかねない点で本質的に許容できない技術であるということである。廣澤は移植技術を一言で「残酷だ」と形容する。彼らは臓器移植によって救われる患者がいないわけではないことをよく承知している。決して単純な感情論で議論しているのではない。移植医療で助かる患者がいることを十分承知していながら、いわゆる「深慮」(賢慮、プルーデンティア。古来、最も深い知恵に対して用いられる言葉である)に基づいた総合的判断から、そういう結論に到達しているのである。ちなみに、両者とも国際的な識見をもち、心臓学に通じている専門医である。レヴェルの高い、傾聴されるべき、高本のいう「専門的批判」なのである。

 ダウィのドキュメントには、臓器の「収穫」とか「くず臓器」といった言葉が移植医の間で使われているという報告がある。移植医療の、ほんの一斑にすぎないかもしれないが、重要な側面を表した言葉ではなかろうか? ダウィは、首のすげかえ、ないし全身移植を計画している神経外科医の考えを紹介している。この外科医は、頼まれたらその手術をやりますか、というダウィの質問に、いとも簡単にこう答えている。「そりゃあ、もちろん」。私たちは科学的、技術的に可能ならどんなことでもやろうとする人物をかつて見た。フォンーノイマンという天才数学者である。

 アメリカの社会学者ニール・ポストマンは、可能なテクノロジーならどんなものにでも突進して使用してしまい、それに反対する者を排撃するある種「全体主義的」な社会形態を「テクノポリ」ギリシャ語からの造語で、「技術がたくさん」というほどの意味)と名づけ、二十世紀アメリカをその典型例であるとしている(『テクノポリー技術の文化への挑戦』一九九二年)。フォン・ノイマンのような人物が縦横に闊歩している社会と考えればいいだろう。ある研究者はフォン・ノイマンの科学論的・技術論的問題性をすでに指摘し、そのようにフォンーノイマン的科学者像が提起している思想的・社会的問題を「フォンーノイマン問題」と呼んだ。全身移植に志す外科医は、典型的な「フォン・ノイマン問題」を提起していると言えはしないであろうか?

 実際、ポストマンは、アメリカの医師は内科的処方で治せる症状でも外科的手段を講じがちであると指摘し、さらに踏みこんで、アメリカの「テクノポリ」では医療も「攻撃的」になると述べている。臓器移植を容認しつづけることによって、内科的医療技術や人工臓器開発が遅れたりすることは十分ありうる。実はアメリカで移植医療が大々的なキャンペーンとともに喧伝され、軌道に乗ったのは、一九八〇年代のレーガン政権下であった。この俳優上がりの大統領はマスメディアを利用して人々の同情を集め、レシピエントへの臓器提供を呼びかけ、美談を意図的に作っていった。そして環境保護政策などの逆行を図ったのもこの大統領である。どうやら、現代アメリカのテクノロジーの質総体が問題だ、と言えそうである。

 アメリカの有力な医療社会学者のルネ・フォックスは、臓器移植医療の実態を長年フィールドワークしたすえ、最近、移植の不支持を官一言した(ルネ・C・フォックス・ジュディス・P・スウィージー『交換部品-アメリカ社会における臓器移植』一九九二年)。医療の荒廃の実態に総合的に思いをめぐらしたうえでの決断と言えるであろう。

 わが国では「脳死」概念が法制化されていないことをもって、医療技術後進国であると考えている者がいるらしい。現在のところ、先進科学技術社会の中で、日本以外に「脳死」を法制化していないもう一つの国がある。ユダヤ人の国イスラエルである。アウシユヴィッツの経験から学んでの深慮に基づく選択であることは容易に想像がつく。

 以上のような諸点を斟酌しても、私は臓器移植を必ずしも全面的に否定するものではない。死体からの腎臓移植は例外的に容認しうる。他人の生に抵触しないからである。このような死体からの臓器移植の段階を越えて、医療の不公正と指弾されようと、「脳死」を法制化し、わずかでも救えふ可能性のある悩める病人に移植医療をほどこすことを決断するのか? それとも、助けうる患者の生命をある段階で断念し、三徴候説による死の定義を守り、臓器移植医療に批判的姿勢を堅持するのか? まさに現代技術を象徴するようなディレンマである。もし臓器移植の全面解禁にふみきれば、ディレンマの段階を越えて、社会の不可逆的荒廃を招くとも考えられるが、いかがであろうか?