魅力的な文章の条件:事実と経験は説得力そのもの

 7,8年ほど前に読んだ雑誌に紹介されていた,ある広告文が脳裏に焼きついている.万年筆ウォーターマンの広告である.つぎのような内容であった.

 彼は朝から張り切っていた.大口顧客との契約が予定されていたからだ.新品のペンを準備し,契約の席についた彼は,そこで大失態をしてしまった.契約書にインクがこぼれて,大切な書類に大きなしみをつくってしまったのだ.大急ぎで事務所に戻った彼は,かわりの用紙を持っていった.しかし,時すでに遅く,顧客は,ライバルの保険外交員との契約をすませていた.

 この事件が引き金になり,彼は,絶対的に安心して使える筆記具をつくろうと決心し,世界ではじめてインクのこぼれない万年筆を世に出した.その名は,ウォーターマン,そして,夢の万年筆をつくりあげた保険外交員こそが,ルイス・エドソン・ウォ一ターマンである.

   1905年,ウォーターマンは,ポーツマス条約の調印に,そして, 1919年にはベルサイユ条約の調印に登場し,その名を世界中に知らしむるに至った.しかし, 1901年にこの世を去ったルイスは,この快挙を知るよしもない.

 じつに説得力のある文章である.自分の失敗を引き金にして,新しい万年筆を開発した,という事実と経験にもとづいているからだ.

 つぎに有名な国際条約での使用という事実を紹介し,文章全体を締めくくっている.事実と経験は,説得力そのものである.多少,文章が未熟でも,事実と経験に立脚した文章は人を引きつけてやまない.

 仕事文では,事実と経験を交えた文章が必須であることを銘記すべきである.文芸の世界では,フィクションは許される.小説家が事実と経験だけにもとづいて書くとすれば,推理作家などは,何十人もの人を殺してしまうことになる.仕事文と小説のちがいはこんなところにもある.

 事実と経験について,もう一例紹介する. 1997年1月11日付『朝日新聞』の「天声人語」の文章で,タンカーからの重油流出事故の処理についての解説文である.

  みんなビニール合羽で身を包む.風に乗って重油の飛まつが飛ぶので,フードもかぶる.袖口は粘着テープで閉じ,重油の侵入を防ぐ.岩という岩に,溶けたチョコレートのような重油がへばりついている.むしろを敷くが,滑りやすい.長靴に荒縄を巻く.それでもスッテンコロリンが絶えない.一帯は重油特有のにおいに覆われている.(一部削除)柄杓を重油に突っ込む.軟らかい.力を込めると,ずぷずぶ中に入る.すくい上げる.1回に3.6リットルほど.重い.バケツに空けるが,こぶし4つ分くらいがべたっと落ちるだけだ.残りは柄杓にへばりつく.                  `

 すべての文がS十V,S十V十〇,S十V十Cの簡潔なパターンでつくられている.なんの飾りもない,気取りのない文章である.しかし,人を引きつけてやまない.事
実と経験にもとづいて書かれた文章だからである.

 みなさんのほとんどは文章の専門家ではない.しかも書く対象が文学一文芸物ではない.名文を書こうと身構えてしまうと,仕事文は書けない.

 この例のように,見たままを,経験したことを,そのまま文にするほうが,実感がわいて,いい文章ができる.子供の文章がいい,といわれる所以はここにある.うまく書こう,名文にしようなどという妄想がないから,かえって人の心をとらえる文章になる.