ブース記念病院

 こうして地球規模でグラム陰性菌が進化を遂げているそのさなか、ジェイムズーレハイル医師が、二ユーヨーク市クイーンズのある病院で感染症部長に就任した。そして、アメリカ国内の病院で記録に残っているESBLグラム陰性菌のなかでも、最悪の菌に侵入されていることに気づいたのである。使えば使うほど薬が効かなくなる

 ジェイムズーレハイルは、温厚で中背の、いかにも医師らしい物腰の人物であり、それと同時に複雑な科学を簡単なことばでわかりやすく、一般の人々に数時間も説明する忍耐力をもちあわせていた。レハイルはいまでは、アメリカでも指折りの感染症の臨床医であるが、一九九八年、クイーンズのメインーストリートにあるブース記念病院の感染症部門の責任者をつとめていたころ、気づいたことがあった。だれもそうは思わないかもしれないが、感染症の医師は、どこか二軍の野球チームの監督と似ている。

 ブース記念病院は、ニューヨーク病院クイーンズとも呼ばれており、五〇〇床を有する入院施設があったが、患者のほとんどが高齢者で、金のない患者を三流老人ホームから悪貨のように渡されるのだった。細菌にかけては東海岸では評判を得ていたブース記念病院は、ニューヨークの多くの病院と同様に、いつも感染症患者であふれていた。だがレハイルには、もっと大規模な病院の感染部長でさえもっていない、ふたつの利点があった。第一に、レハイルは、微生物のことをよく知っていた。彼の前任者が感染症の診断に役立てようと、〈ギデオン〉というソフトウエアを開発しており、いくつかの変数を入力すれば、コンピュータが五種類の微生物の容疑者を吐きだしてくれた。数学的アルゴリズムに基づき、もっとも怪しくない微生物から、もっとも怪しい微生物までを教えてくれるのだ。だが、レハイルは、頭のなかでアルゴリズムを計算することができ、かならずコンピュータとおなじ容疑者リストを考えだした。その優れた能力、そして思いやりのある態度から、レハイルは病院の経営者から信頼されていたし、忠誠心あふれる職員はあつい信頼を寄せていた。

 着任早々、レハイルは、多くの入院患者からアシネトバクターに似た菌株が検出されたことに気づいた。この菌株は、セフタジジム、そしてもっと強力なイミベネムには感受性があったが、ほかのすべての薬に耐性があった。レハイルは、セフダジジムでアシネトバクターに急襲をかけようとしたが、残念なことに、この薬にも耐性が見られるようになったIアシネトバクターだけでなく、クレブシエラにも。二年もすると、レハイルはセフタジジム耐性クレブシエラの集団発生を目撃するようになった。