アシネトバクター

 一九九八年になると、レハイルは「ブース記念病院内でのセフタジジム耐性クレブシェラの流行は終 284わった」と報告することができた。レハイルが、シュードモナスに誘発したイミペネム耐性もまた減少していた。消え去ったのではなく、ただ減少していたのである。ときおり、窓のない地下のオフィスで、レハイルは自分が『エドーサリヴァンーショー』にでてくる昔の喜劇役者になったような気がした。棒の上で皿をくるくるまわしているのだが、一枚の皿の勢いがなくなり、落ちそうになり、レハイルはその皿をもう一度まわそうと、あわてふためく。すると、もう一枚の皿もまたゆっくりと速度を落とし、ぐらぐらしはじめる。つまり、ひとつのグラム陰性菌が耐性を獲得したので、レハイルは新しい薬で対抗しようとする。新しい薬は効果をあげるかもしれないし、あげないかもしれない。もし作用すれば、ほぼ確実にもうひとつの病原菌に対する耐性を誘発する。レハイルにできることといえば、ふたつの薬のバランスをとり、せいぜい悲観しないことだけだった。あまり悪く考えない、それが肝心だった。

 ブルックリンでは、レハイルの病院から少し車を走らせ、多民族がギルドのようにこまごまと暮らす地域を抜けたあたりで、デイヴィッドーランドマン医学博士は「この自分に、なにかましなことができるだろうか」といぶかっていた。一九九〇年代後半、ランドマンは、ニューヨーク州立大学健康科学センターの感染症チームに所属していた。一九九七年、ランドマンと同僚は、ブルックリンじゅうの病院ですべてのグラム陰性菌の耐性に上昇が見られたため、警戒し、この行政区で調査をおこなった。するとブルックリンの一五の病院から検出した肺炎桿菌の分離株の四四%に、セファロスポリン系抗生物質に耐性をつくるESBLが含まれていることがわかった。たとえ、ほかの薬には耐性がないとしても。分離株の大半は、ごくわずかな菌株から広がったもので、この病原菌が一度セフアロスポリンによって耐性を誘発されれば、医療従事者の手や周囲の物体の表面に広がり、同様に患者自身もまた、病院と老人ホームを往復するおいたに感染を広げるだろう。かれらは重々しく報告した。ここまで耐性のレベルがあがれば、これは「この地域に蔓延している」と言える、と。

 とくに、アシネトバクターの話には、ぞっとさせられた。ブルックリンのおなじ一五の病院の分離株を検査したところ、イミペメムなどカルバペネム系抗生物質に感受性があるアシネトバクターは半分しかなく、セフタジジムなどのセフアロスポリン系抗生物質に感受性があるアシネトバクターは二五%だけだった。ランドマンには、危機が迫っていることがわかった。「だが、なぜこの現象はニューヨークで起こったのだろう?」ランドマンはふしぎに思った。「危険な副作用をともなう有毒なポリミキシンに手をたす以外、なにか打つ千はあるのだろうか?」