ブラウン大学ミリアム病院

 この流行はニューヨークを標的にしているかに見えたが、世界各地からも報告があがりはじめた。一九九〇年代になると、フランス、スペイン、日本から、耐性グラム陰性菌集団発生の報告が寄せられるようになった。スイスのチューリッヒでは、ふたりの医師が一九九二年から一九九九年にかけて、ヨーロッパの専門治療病棟の集中治療室から検出された六種類の菌を調べた。すると一九九二年から一九九七年のあいたに「緑膿菌のイミペネム耐性が、ほぼゼロから二一%に上昇した」ことが判明した。なお悪いことに、一九九八年から一九九九年のあいだに、耐性は三〇・九%にまで上昇した。たった一年の増加としては驚くべき数字たった。

 アメリカでは、いくつかの病院から「多くの抗生物質に対するクレブシェラ分離株の耐性率が四〇% に達した」という報告があがったが、なかにはまったく耐性菌が検出されない病院もあった。こうしたばらつきは、ほかのグラム陰性菌の特徴でもあった。二〇〇一年の秋、オ(イオ州グリーグランドの復員軍人医療センターで、ルイスーライス医学博士は、地元の病院から検出されたグラム陰性菌の大半については、わりあい楽観視していたが、多剤耐性アシネトバクターの新しい株については不安を感じはじめていた。ロードアイランドプロヴィデンスブラウン大学ミリアム病院では、アントンーメデイルース医学博士が、アシネトバクターよりシュードモナスにおいて耐性が急上昇を見せていると報告した。マサチューセッツ州バーリントンのレイヒー・クリニックでは、ジョージージヤコビー医学博士が、広範に広かってはいるものの、比較的良性のアシネトバクター株を報告した1芝生にあっというまに広がる雑草のメヒシバのようなものだ、と彼は説明した。アシネトバクターの変異性は油断がならない。つまり、ある日は穏やかな前兆しか見られなかったものが、翌日には残忍な脅になるかもしれないのだから。