FDA(米国食品医薬品庁)に電話

 細胞に穴をあけるメカニズムは、ペプチドがとくに耐性菌に効果がある可能性をしめしていた。これまであらゆる抗生物質から攻撃目標にされてきたタンパク質は、変えたり、置き換えたりすることができた。ちょうどパトリスークーヴァランが、パリのパスツール研究所で、バンコマイシン耐性腸球菌でその作用を確認したように。細菌にとって、細胞膜をすべて変えるのは、むずかしいではすまされない、おそろしく困難な作業だろう。そんなことは不可能に思えた。そしてザスロフが見るかぎり、ペプチドは細菌の細胞膜だけにひきつけられていた。すくなくとも試験管内では、正常なヒト細胞の細胞膜には決してひきつけられなかった。だからこそ、ペプチドは完璧な抗生物質になると思われた。

 よくあるタイプの国立衛生研究所の科学者なら、いったん自分の発見を論文に発表することが決まれば、また研究室にこもり、つぎなる知的研究材料をだらだらといじくりまわしていただろう。だが、小児科医として、嚢胞性線維症の乳児のことを思いだしたザスロフは、「いますぐペプチドを薬にしたい」と望むようになった。手はじめに、ザスロフはFDA(米国食品医薬品庁)に電話をかけた。「こちらは国立衛生研究所の者で、ある発見をして、それが近々論文で発表するのですが」と、ザスロフは電話にでた官僚に話した。「これを薬にするうえで必要な手続きをとるのを、FDAの方にもお手伝い願えませんでしょうか?」ところが、政府の仕事を果たしつつ、政府の研究者が薬を開発するのを手助けするシステムが、FDAにはないことがわかった。国立衛生研究所にも、そうしたガイドラインはなかった(その後ほどなく国立衛生研究所は、技術移転から適度の利益を得るのを研究者に許すようになった。だが、急成長するバイオテクノロジー産業が、「自分たちの発見にもっと分け前をよこせ」と迫る国立衛生研究所の難民でいっぱいになるのは目に見えていた)。論文が出版されると、つぎつぎにかかってくる電話の応対に追われるようになり、ザスロフは「解雇されるか、訴えられるのを」覚悟した。というのも、彼は政府の職員であり、どこかの一企業に融通をきかせてはならないため、たとえばメルク社に情報を伝えようものなら、ブリストルーマイヤーズ社から訴えられかねなかった。とうとう、彼はベンチャー資本家のウォリー・スタインバーグから連絡を受けた。スタインバーグは、ゲノム研究所設立のため国立衛生研究所から独立する科学者クレイグーヴェンターに融資しようとしていた。