スミスクライン・ビーチャム社が〈バクトロバン〉の販売

 ヴェンターは転職の条件として、「ゲノム研究所は非営利財団にしなければならない」と、スタインパークに注文していた。そこで、ザスロフも条件をだした。新しく興す企業のその名もマゲイニン社-の立ち上げは手伝うが、「教鞭もとりたいし、小児科医として治療にもあたりたい」という条件をだしたのである。ペンシルヴェニア大学から長年くどかれていたザスロフは、手っ取り早く用意された遺伝学と小児科医学の大学教授という椅子におさまり、同時にフィラデルフィア小児病院の人類遺伝学の主任に就任した。マゲイニン社は、農業の町であったプリマスーミ圭アイングに建設されたオフィス街に本社を構え、ザスロフを非常勤の顧問に迎えた。

 それは理想的な環境であるはずだった。どんな医学研究者も嫉妬を覚えるであろう夢の生活。だが病院の研究室でペプチドの研究をつづけ、その結果をマゲイニン社に渡せるという考えは甘かった。病院の理事たちはそうは考えていなかったのである。「研究資金は病院側が提供したのだから、研究結果も病院の知的財産であるべきだ」と病院側は主張した。一方、ザスロフにとって第三の勤め先である大学側も、「大学にも収入の分け前をよこせ」とロビー活動をおこない、ザスロフはお手上げとなった。傷心のうちにザスロフは、病院の管理職を辞職し、与えられた大学教授の地位も返上した。一九九二年に関していえば、彼は人生をマゲイニン社に賭けたのだった。

 ペプチドがほとんどなんにでも作用するようだっだので、ザスロフと同僚は、臨床試験をおこなうにあたり、ある疾患を治療できる唯一の薬であることを条件に市場の情報を調べた。というのも、競争相手が少ないほど、市場参入の機会が大きくなるからだ。そして、かれらは「膿疱疹」に的をしばった。膿疱疹は「とびひ」のたぐいの軽症の皮膚感染症で、発疹のような症状が特徴で、たいていレンサ球菌や黄色ブドウ球菌などの皮膚細菌によって起こる。スミスクラインービーチャム社が、膿疱疹用にバクトロバンという商品を販売していたので、マゲイニン社は、スミスクライン・ビーチャム社が〈バクトロバン〉の販売前に実施したものとまったくむなし臨床試験をおこなった。そうすれば確実にFDAの承認を受けられるはずだからだ。そして比較対照薬として〈バクトロバン〉を用いた。もしペプチドが〈バクトロバン〉と同程度の、あるいはそれ以上の効果を見せれば、まちがいなくFDAの承認を得られるだろう。そうすればマゲイニン社は、もっと重症の局所感染症の試験をつづけることができるし、市場で利益をあげる製品が二種類できることになる。そうなれば、もっと重症の血液感染症臨床試験をおこなう態勢がととのう。