遺伝子治療

 

 遺伝性病患をはじめとして多くの病患で遺伝子の変異が病因であることがわかってくると,外部から正常な遺伝子を患者に導入して発現させることで根本的な治療をしようという遺伝子治療(gene therapy)の考え方が生まれてきた.遺伝子治療は遺伝性病患のみでなく,がんやエイズあるいは一般に成人病といわれる幅広い病患にまで有効であろうと期待されている.しかし,遺伝子治療によってこれまで解決法のなかった難病の治療が可能になるという期待が出てくる反面,外来の遺伝子を導入して形質を変えるのは人間改造につながるのではないかという倫理的な間題点も浮上してきた.すなわち技術が進展し,安全に遺伝子を導入して治療することが可能となると,美人になれる遺伝子や背の高くなる遺伝子,頭のよくなる遺伝子を導入したいという要望が出てくるおそれは十分にある.そのような風潮が出てくると,遺伝子の優劣そのものが議論されるようになり,優生学的発想に基づく差別や大種間題などのゆゆしき社会間題に発展しかねないからである.

 

 遺伝子治療の可能性について大きな社会的波紋を投げかけたのは, 1980年にカリフォルニア大学の医療チームが倫理的・技術的議論のないままサラセミア患者にグロビン遺伝子を導入するという臨床実験を強行した事件である.人道的にみても危険の多いこの種の事件の続発を恐れた米国政府は, 1985年には米国NIH (National institute of Health)に“遺伝子治療に関する/卜委員会"を設けてガイドラインを設定し,それ以降はこの委員会の認可なしでは遺伝子治療が実施できなくなっている.このガイドラインによると,外来遺伝子を導入する臨床実験は体細胞に対してだけ許され,子孫に遺伝する生殖細胞に対して行うことは禁止されている. 1989年にはNIHのローゼンバーグ(S. A. Rosenberg)やアンダーソンらによるがん患者へのマーカー遺伝子の導入実験がはじめて許可され,遺伝子導入ベクターの安全性や効率が調べられた. 1990年にはその実験結果をもとにして計画された,重症免疫不全症であるアデノシンデアミナーゼ(ADA)欠損症の患者への正常遺伝子導入の遺伝子治療に対して認可がおり,NIHのクリニカルセンクーにおいて4歳の女児に対して世界初の遺伝子治療が施された.

 

 この患者は生まれつきアデノシンデアミナーゼ(ADA)という酵素が異常なため免疫力がほとんどなく,普通の人が平気なちょっとした感染でも死にいたってしまう.治療法はないので,患者は感染を防ぐため他人とは接触できず,一日中家に閉じこもっていなければならない.この遺伝子治療においてはまず患者のリンパ球を採取し,試験管内で正常ADA遺伝子を導入したうえで患者に返すというex vivo遺伝子治療法が採用された.経過は良好で,治療開始から1年後には患者は幼稚園に通いけじめ,現在ではリンパ球の数もほぼ正常になり,半数のリンパ球細胞で導入した正常遺伝子がはたらいているおかげで普通の子供と変わらない生活を送っているという.

 

 この成功に勇気づけられ,米国では家族性高コレステロール血症,血友病嚢胞性線維症などの単一遺伝子の変異による遺伝性疾患に対する遺伝子治療の計画が進み,すでに100人以上の患者が遺伝子治療を受けている.脳腫瘍への臨床応用も始まり, NIHで遺伝子治療を試みた15人の患者のうち8人で腫瘍が縮小したという結果が報告されている.日本でも1995年には北海道大学附属病院で4歳の男児(ADA患者)に対して最初の遺伝子治療が施された.その後,岡山大学熊本大学東京大学医科学研究所,がん研究会附属病院などでがんの遺伝子治療の計画が進んでいる.岡山大学の計画ではかぜの原因となるアデノウイルス(二本鎖DNAゲノムを持つ)を無害化してベクターとし,がん抑制遺伝子を内視鏡などを使って肺がん患者のがん細胞に直接導入するという遺伝子治療法を合計30人のがん患者に施す予定である.熊本大学の計画ではエイズウイルスに感染しているがいまだ発症していない4人に対し,免疫力を高めてエイズ発症を抑える目的で遺伝子治療を行う.エイズウイルス遺伝子の外皮タンパク質をコードする部分をレトロウイルスベクター(RNAゲノムを持つ)に組み込んで患者に注射し,そのタンパク質を攻撃する免疫細胞を増やす.この免疫細胞は生きたエイズウイルスに感染しているリンパ球などの細胞も攻撃するはずなので発症を遅らせると期待されている.東京大学医科学研究所の計画では腎臓がんの末期患者からがん細胞を採取して培養し,免疫機能を担うTリンパ球を活性化する遺伝子を導入する.放射線を当ててがん細胞を不活性化してから体内に戻し,がんを標的にする免疫機能を高めることを期待する.がん研究会の計画では抗がん剤を細胞の外に排出する機能を与える遺伝子(M1)R /)を乳がん末期の患者の正常な骨髄細胞に導入し,抗がん剤を大量に適用できるような状況をつくる.乳がんにきく抗がん剤は骨髄細胞にも影響を与えるため,副作用が強く適用量に限界がある. MDR1遺伝子導入により,副作用を抑えてがん細胞のみを効率よく殺すことを目指す.