ヒトゲノムの遺伝子地図

 

 ヒトのゲノムマッピングの歴史は意外と古く, 1911年に米国コロンビア大学モーガン研究室のウィルソン(E.B.Wilson)が特徴のある遺伝パターンの解析結果から類推して色盲の遺伝子がX染色体上にあると提唱したときにまで遡ることができる.X染色体は性に依存する表現型を示し,顕微鏡下でも異常がみつけやすい.そのため,その後の50年以上もの間はX染色体と連鎖した遺伝性病患の特徴的な遺伝パターンが重要な遺伝子マッピングの方法でありつづけた.X染色体以外の染色体上に遺伝性病患の原因遺伝子がはじめてマップされたのは1968年のことである. 1960年代の終盤に入ると体細胞融合法が開発され,ヒトとマウス染色体を融合させることで少数のヒト染色体を持ったマウス細胞株が樹立できるようになった.その技術は体細胞遺伝学へと発展し,遺伝子地図づくりを飛躍的に進展させる原動力となった.このころ特殊な蛍光色素によって各染色体に特有な縞模様が染め分けられることがみつけられ,染色体分染法(バンティング)として工つ1つの染色体を同定できるようになった.

 

 1980年,ボッシュダイン(D. Botstein)やデービス(R. Davis)らはRFLPを示す遺伝子マーカーを体系的に見いたして組織化することでヒト全ゲノムの遺伝子地図を作製することを提唱した.染色体土に散在するマーカーを用い,遺伝性病患の家系で示される発症と連鎖するRFLPとの関係を解析すれば病因遺伝子の染色体上の位置を特定できる可能性を示したのである.酵母の分子遺伝学者であったボッシュダインらが,酵母で成功してきた分子遺伝学的手法をヒトの遺伝学に応用しようとして考えついたこのアイデアは多くの研究者を魅了した.その影響で多くの研究者が遺伝子地図作製へと参加することとなり,研究は世界各地で着実に進んでいった.

 

 1983年に入ると遺伝性病患を持つ家系のDNAマーカーを用いたRFLPの連鎖解析によってハンチントン舞踏病の原因遺伝子を第4染色体上に同定したとの報告が出された.続いてデュシェンヌ型筋ダストリフィー遺伝子がX染色体短腕に同定されると,これまで冷ややかだったヒト遺伝子学者までがこの方法の威力に圧倒されるようになった. 1985年には嚢胞腎症,網膜芽細胞腫嚢胞性線維症の原因遺伝子の染色体上の位置決定というさらに大きな成果が発表された.1987年には慢性肉芽腫症(CGD),デュシェンメ型筋ジストロフィー網膜芽細胞腫(RB)において染色体の配座点から出発して機能の不明なまま原因遺伝子がクローニングされた.これらの成果によりRFLPによる遺伝子連鎖解析法は一躍注目を浴びることとなった.しかし,それでもなお旧来の体細胞遺伝学や顕微鏡観察による染色体欠失という研究結果を補助的な手段として用いたという弱みはあった. 1989年,嚢胞性線維症(CF)においてはじめて, RFLPによる遺伝子連鎖解析単独で原因遺伝子のクローニングが達成された.嚢胞性線維症は欧米では患者も保因者も多いため,その原因が解明された社会的意義は大きく,遺伝子連鎖解析の信用度を大いに高めたのである.

 

 1987年には彼らが顧問をしていたコラボラティブ・リサーチ社の研究チームがはじめてまとまったヒトゲノムの遺伝子地図を発表した.これが刺激となって,それまで各国で細々と続けられていた地図づくりと,それをもとにした遺伝性病患の連鎖解析が熱狂の様相を呈しはじめ,その後の数年間は多くのブルーフが激しい競争に巻き込まれていった.競争からくる無益な緊張を解消し,世界中の研究ブルーフの協力関係をつくってデータを1個所に集中する重要な役割を担ったのは,ちょうどそのころパリに設立されたヒト多型性研究センター(CEPH)であった. CEPIIの提唱で世界中から遺伝性病患を起こす40家系もの貴重な培養細胞が取り寄せられCEPIIに保管された.その後,これらの家系におけるRFLPを体系的に調べてDNAマーカーを1列に並べ,より詳細な遺伝子地図示つくられていった. 1996年には数多くの遺伝子マーカーによって全ゲノムをカバーする遺伝子地図が出来上がった.そのおかけで現在では自分の興味ある染色体部分に存在するDNA断片が電話やファックスによって即座に注文できる状況になっている.