狂牛病の病原体はプリオンか?

 

 1982年,プルシナー(S. B. Prusiner)らはスクレイピーを発症したヒツジの脳の抽出液をマウスの脳に注射するだけでスクレイピーとよく似た症状が出ることを発見した.この抽出液を調べてみると多量の奇妙なタンパク質が含まれていたので,彼らはこれをプリオン(prion)と名づけた.驚いたことにプリオンをマウスの脳に注射したり食べさせたりするだけでもスクレイピーを発症させることができたのである.この感染性を持つタンパク質という考え方はあまりにも奇抜すぎて素直には受け入れられず,未知の細菌やウイルスの介在が疑われた.これまでの常識では感染(形質転換)能を持つことができる物質は核酸に限られていたからである.しかしどの実験においてもスクレイピーの病原体は細菌やウイルスはおるか核酸でさえなく,プリオンタンパク質であるという考え方を支持する結果が出た.

 

 その後の多くの研究により,すべての哺乳動物は唯一のプリオン遺伝子を持っており,発現されるプリオンタンパク(PrP : ヒトでは253アミノ酸)は脳神経系でなんらかの重要なはたらきをしていることがわかってきた.実際,プリオン遺伝子を破壊したノックアウトマウスでは若いうちは普通のマウスと変わりない挙動を示したが,高齢(70週齢)になると運動を制御する小脳の神経細胞が著しく消失し,まっすぐ歩けないなどの運動障害を起こした.

 

 プリオンアミノ酸配列は同一であるが立体構造の異なる正常型プリオン(PrPc : cellular prion protein)とスクレイピープリオン(PrPsc : scrapie prion protein)の2つの形態をとる.PrPscはなんらかの翻訳後修飾の違いによりPrPcと比べてβシートと呼ばれる高次構造が正常型の10倍以上(3%→43%)も増えている.スクレイピーでは細胞内にあるほとんどのPrPcがpj-pscに変化しており,正常に機能しないままSAF (scrapie associated fibrils)と呼ばれる有害な微細棒状の特異的な形態をとって脳に蓄積し,神経機能を低下させる.PrPsc はPrPcと違ってタンパク質分解酵素であるプロテアーゼKにより消化分解されないので,食べてからも胃液の中に含まれるタンパク質分解酵素で消化されることもなく,血液中を無傷のまま運搬されて脳組織まで到達する.

 

 ヒトの海綿状脳症のうち遺伝性が疑われている症例においてはプリオン遺伝子の患者に特異的な点変異がいくつかみつかっている.これらのアミノ酸置換はいずれもPrPcの正常な立体構造を壊すことでスクレイピー型へ変換していると考えられる.とくにGSSにおけるPro工02→Leu変異は,北米,日本,ドイツ,英国などの罹患家系発症者において人種を超えて報告されている.実際,プルシナーらがこの変異を持つトランスジェニックマウスを作製し,4世代にわたる子孫176匹を調べたところ, Pro 102 →Leu変異を引き継いだ87匹のうちの35匹に海綿状脳症の自然発生が認められた.この結果はPro 102 →Leu変異のみでprpcを自発的にスクレイピー型へ変換できることを示唆する.

 

 正常なプリオンが異常な立体構造をとって海綿状脳症を発症させる仕組みについては以下の2つのモデルが提出されている.1つはプルシナーが提出しているプリオン仮説(prion hypothesis)で,体内に入ったPrPsc力l伝染要因の主体となるというモデルである(図6・14).すなわち,正常個体に取り込まれたPrPs・は脳神経細胞に侵入後,既存の正常なPrPcに接触し,なんらかの翻訳後修飾を施すことによってPrPscに変換する.変換によって生じたpj-pscは,近くのPrPcにはたらきかけ,次々とPrPscに変換してゆく.こうしてネズミ算式にPrPscが増えてゆく結果,脳内の神経細胞はPrPscでいっぱいになってしまい発症にいたるというモデルである.一方,ワイスマン(C. Weissmann)力1提出している統合仮説(unified hypothesis)においては, PrPSctこ加えて,病態を修飾する仮想の核酸であるコープリオンが重要な役割を果たす.感染の主体はプリオンではなく,コープリオンという核酸であるため,従来の常識である核酸による感染機序に従う.そのため感染原理はウイルスなどと同じものとなる.プリオン仮説が現在では主流であるが統合仮説が否定されているわけではない.