バリアフリーとノーマライゼーション

 

 バリアフリーとは、行動の妨げとなる障害を取り除くことであり、それは身体障害者福祉から始まった。障害者は施設に収容して保護するというやり方に対して、1965年頃から地域で支援していく地域福祉(コミュニティケア)ということが言われ、障害者が外に出て行けるまちづくり、障害者の生活圏拡大運動が始まった。 1969年。仙台市車いす利用の障害者がボランティアと協力して公共施設の車いすによる点検を行い、スロープや身体障害者用トイレの設置などの改善をうながしたのが福祉まちづくりの始まりであるとされている。

 ちょうどその頃、東京大学生産技術研究所で、車いす使用の障害者を対象とした実験住宅が計画され、1971年に大分県別府市にある障害者施設「太陽の家」に建てられた。これは今日のバリアフリー住宅のプロトタイプと言ってよい。とくに注目したいのは、この提案が医者と建築家と自動制御の専門家の協働で行われたことである。

 しかしバリアフリーということばは、1968年に作られたアメリカの建築障壁法(Architectural Barrier Act)が世界に広まり、1974年に国連障害者生活環境専門家会議が出した報告書「バリアフリーデザイン」によって広く使われるようになったものである。

 こういった先駆的な動きは、当時の日本が高度成長のもと、都市化とともに核家族化が進行し、高齢者や障害者の問題を家族制度の枠内に押しとどめておくことを不可能にした社会事情を背景に生じた。しかし同時にそれは1960年代半ばに北欧で確立された、知的障害者をその障害とともに受容すると同時に、彼らにノーマルな生活条件を提供することを指したノーマライゼーションに通底するものでもあった。

 物理的障壁を指す建築用語から始まったバリアフリーということばも、今日では制度的な障壁、文化的な障壁、情報面の障壁、意識上の障壁と、その意味も拡大されてきている。現在では、バリアフリーノーマライゼーションを実現させる手立てと位置づけることができよう。

 ところで日本の高齢化率が7%に達し、高齢化社会に入ったのは1970年であったが、実はそれを重大なこととして「国民生活白書」が警鐘を鳴らしたのは1979年のことであったのである。人口動態統計に着目して、家の中のバリアフリーの必要を言い出したのはさらにあとになってからのことであった。

 人口動態統計によると、家庭における不慮の事故による死亡数は1990年代の中ごろから徐々に増加し、1995年からは毎年1万人に達している。この全体数の延びは65歳以上の高齢者の増加によるところが大きく、1980年代には5割台だった高齢者が全体の中で占める割合が、90年代後半になると7割台になり。その割合はその後も徐々に増えつつある。このことは、いかに虚弱な高齢者が増えてきたかを物語っている。転倒転落にいたっては、何と4割余りが同一平面上での転倒、つまり、すべったりつまづいたり、よろめいたりしての転倒で死んでいるのである。そして1990年代に入ってからの主な死因のうち窒息を除けば、溺死溺水、転倒転落、火炎のいずれも住宅にかかわっていることに気づかされる。まさにここにバリアツリー住宅の必要性があるのである。