DNA指紋による遺伝子鑑定

 

 遺伝子診断の試みを多くのヒトを対象に行っている過程で,個々人の染色体DNAの塩基配列には予想以上に個人差が大きいことがわかってきた.とくに反復配列の反復数の個人間の多様性が検出しやすい特徴として注目を浴びてきた.これらの個人差を検出するという作業は,病気の診断のみでなく親子鑑定や犯罪捜査にまで用いられるようになってきたため, DNA鑑定と総称されている.最近よく使われるようになってきた有用な反復配列マーカーとしてVNTR (variale number of tandem repeat),マイクロサテライト(microsatellite)という2つがある.

 

 VNTRとはヒトのゲノム(全DNA)の中に分散して存在する反復単位が7~40塩基対の単純な反復配列で,反復数には大きな個人差がある.たとえばヒト第1染色体短腕(端)に存在する16塩基の繰り返し配列は個人差が大きく,PCRによって容易に検出できる.このVNTRを用いたDNA鑑定(MCT118鑑定法と呼ばれる)においては被験者のDNAを試料にしたPCRによって,14~41回の27種類の繰り返しパターンのうち父親由来と母親由来の合計2本のバンドが観察され,それらバンドの長さの組み合わせに個人差が出る.たとえば被験者Aは22回と37回の繰り返し塩基配列を持つ(22・37型)と分類され,被験者Bは(19・35型),被験者Cは(26・30型)などと分類される.実際に被験者の数を増やした調査が進むにつれてバンドの長さの分布にかたよりがあり,ポピュラーな組み合わせとまれな組み合わせがあることもわかってきた.そのため同じ組み合わせを持つヒトも高い頻度で存在し,完全には個人を識別できない場合もある.幸い個人差を検出できるVNTRはこれ以外にもいくつかみつかっているので,2つ以上を組み合わせて鑑定すれば判断は非常に正確となる.

 

 マイクロサテライトはヒトのある染色体の領域に局在する7塩基までの短い塩基配列を繰り返し単位とした反復配列である.これも繰り返しの回数が個人によって異なるのでPCRによって個人差が検出できる.よく使われているTH 01鑑定法では第H染色体(短腕の端)にみつかったAATGという4塩基配列の繰り返し数が個人によって5~11回という違いを示すことを利用する.この場合,繰り返し数の幅力汀種類と多くないので1つのマイクロサテライトだけでは個人の特定はできない.このためいくつかのマイクロサテライトを同時に使用して確度を高める必要がある.マイクロサテライトの利点は短い塩基配列の繰り返しを検出するため,試料のDNAが多少古くて分解していてもバンドとして検出できる点である.この利点は犯罪捜査にDNA鑑定を応用するさいに威力を発揮する.たとえば犯罪現場に残った犯人の毛髪1本の根本に残る1つの毛根細胞や,20年前の衣服に残る一滴の血痕から採集したDNAを用いて正確なDNA鑑定ができるという.

 

遺伝子変異の種類と遺伝子診断

 

 一般に遺伝性疾患の原因となる遺伝子の変異には1つの塩基が変化する点突然変異(point mutation)と,ある遺伝子の領域がごっそりと欠失(deletion),挿入(insertion),増幅(amplification)などにより変化する変異に大別される.点突然変異にはコードするタンパク質のアミノ酸を変化させるミスセンス(missense)変異,終止コドンに変化してタンパク質への翻訳を途中で停止させるナンセンス(nonsense)変異,翻訳の読み枠を変えるフレームシフト(frameshift)変異がある.ASAは変異型DNAにはハイブリダイスできないオリゴヌクレオチドをプライマーとして用い,変異DNAはPCRにより増幅できない性質を利用して両者を区別する方法である. ASOにおいては同様なオリゴヌクレオチドを直接プローブとして用い,サザンブロットによって区別する. CCMでは変異によって二本鎖DNAを形成できないヘテロ二本鎖領域をRNaseによって分解し,その結果をゲル電気泳動によって解析する. DGGEはこのヘテロ二本鎖領域が変性勾配ゲル中では野生型とは異なる位置に電気泳動される性質を利用して特殊な電気泳動装置により解析する方法である. HETではより簡便にこのヘテロ二本鎖領域が野生型より遅く電気泳動される性質を利用する. LCRは変異DNAがDNAリガーゼによって接続されないため増幅が行われない性質を利用する. PEXは変異近傍の塩基配列をPCRを利用して直接シークエンス決定する方法である.SSCPではPCRによって点変異近傍のDNA断片を増幅し,点変異によって変化している一本鎖DNAの立体構造をゲル電気泳動度の差異によって検出する.

 

 PCRの開発によって遺伝子診断に要する細胞の数は非常に少数ですかようになった.血液を数m/も採取すれば十分で,うがいをさせて,その中に漏れ出てくる口内細胞や毛髪の根本に付着している1個の毛根細胞を用いてさえ遺伝子診断は可能である.胎児の場合は母親の子宮にいる間に採取した羊水中に混入してくる少数の胎児細胞を用いて遺伝子診断を行う.

病気の原因としての遺伝性素因と環境因子

 

 どのような病気の原因も,つきつめて考えれば遺伝性素因と環境因子との2つに分けられる.すなわち,病気とはある遺伝性素因に環境因子が作用して発症する不健康な状態といえる.当然ながら病気によって2つの要因の寄与は異なる.たとえば小児において発症する遺伝性病患の多くは環境因子にはほとんど左右されない遺伝性素因の寄与が100%に近い病気である.それでも食事療法などで発症を抑えることのできるフェニルケトン尿症などの場合は環境因子の寄与も無視できない.逆に,感染症やけがの後遺症として起こる病気は環境因子の寄与が大きい病患である.しかし,ウイルスや細菌に対する抵抗性やけがの治りやすさという免疫力は明らかに体質という遺伝性素因によって決まってくる.その意味で,遺伝性病患に限らず,一般の病気においてさえ遺伝性素因の果たす役割が幅広い医療分野において強く認識されるようになってきた.とくに遺伝性素因を理解することによって病気の治療のみでなく予防にも役立つのではないかという考えが生まれてからは遺伝子診断の重要性を多くの人が認めるようになってきたのである.

 

 遺伝子診断とはDNA(まれにはRNA)の塩基配列を検査することにより,その病気に罹患しているかどうかを診断することである.生まれる前の胎児の状態においてさえ遺伝子診断によると正確に発病を予見できる.この点は他の診断法にはない大きな特徴である.一般に多くの遺伝子変異は劣性であるため,保因者(carrier)と呼ばれる,片方の染色体の遺伝子のみが変異を起こしている人は発病しない.保因者同士が結婚した場合にのみメンデルの遺伝の法則に従って,その両親から生まれてくる子供のうち4分の工の確率で両方の染色体の遺伝子がともに変異した子供が産まれ発病するのである.

 

 

狂牛病の病原体はプリオンか?

 

 1982年,プルシナー(S. B. Prusiner)らはスクレイピーを発症したヒツジの脳の抽出液をマウスの脳に注射するだけでスクレイピーとよく似た症状が出ることを発見した.この抽出液を調べてみると多量の奇妙なタンパク質が含まれていたので,彼らはこれをプリオン(prion)と名づけた.驚いたことにプリオンをマウスの脳に注射したり食べさせたりするだけでもスクレイピーを発症させることができたのである.この感染性を持つタンパク質という考え方はあまりにも奇抜すぎて素直には受け入れられず,未知の細菌やウイルスの介在が疑われた.これまでの常識では感染(形質転換)能を持つことができる物質は核酸に限られていたからである.しかしどの実験においてもスクレイピーの病原体は細菌やウイルスはおるか核酸でさえなく,プリオンタンパク質であるという考え方を支持する結果が出た.

 

 その後の多くの研究により,すべての哺乳動物は唯一のプリオン遺伝子を持っており,発現されるプリオンタンパク(PrP : ヒトでは253アミノ酸)は脳神経系でなんらかの重要なはたらきをしていることがわかってきた.実際,プリオン遺伝子を破壊したノックアウトマウスでは若いうちは普通のマウスと変わりない挙動を示したが,高齢(70週齢)になると運動を制御する小脳の神経細胞が著しく消失し,まっすぐ歩けないなどの運動障害を起こした.

 

 プリオンアミノ酸配列は同一であるが立体構造の異なる正常型プリオン(PrPc : cellular prion protein)とスクレイピープリオン(PrPsc : scrapie prion protein)の2つの形態をとる.PrPscはなんらかの翻訳後修飾の違いによりPrPcと比べてβシートと呼ばれる高次構造が正常型の10倍以上(3%→43%)も増えている.スクレイピーでは細胞内にあるほとんどのPrPcがpj-pscに変化しており,正常に機能しないままSAF (scrapie associated fibrils)と呼ばれる有害な微細棒状の特異的な形態をとって脳に蓄積し,神経機能を低下させる.PrPsc はPrPcと違ってタンパク質分解酵素であるプロテアーゼKにより消化分解されないので,食べてからも胃液の中に含まれるタンパク質分解酵素で消化されることもなく,血液中を無傷のまま運搬されて脳組織まで到達する.

 

 ヒトの海綿状脳症のうち遺伝性が疑われている症例においてはプリオン遺伝子の患者に特異的な点変異がいくつかみつかっている.これらのアミノ酸置換はいずれもPrPcの正常な立体構造を壊すことでスクレイピー型へ変換していると考えられる.とくにGSSにおけるPro工02→Leu変異は,北米,日本,ドイツ,英国などの罹患家系発症者において人種を超えて報告されている.実際,プルシナーらがこの変異を持つトランスジェニックマウスを作製し,4世代にわたる子孫176匹を調べたところ, Pro 102 →Leu変異を引き継いだ87匹のうちの35匹に海綿状脳症の自然発生が認められた.この結果はPro 102 →Leu変異のみでprpcを自発的にスクレイピー型へ変換できることを示唆する.

 

 正常なプリオンが異常な立体構造をとって海綿状脳症を発症させる仕組みについては以下の2つのモデルが提出されている.1つはプルシナーが提出しているプリオン仮説(prion hypothesis)で,体内に入ったPrPsc力l伝染要因の主体となるというモデルである(図6・14).すなわち,正常個体に取り込まれたPrPs・は脳神経細胞に侵入後,既存の正常なPrPcに接触し,なんらかの翻訳後修飾を施すことによってPrPscに変換する.変換によって生じたpj-pscは,近くのPrPcにはたらきかけ,次々とPrPscに変換してゆく.こうしてネズミ算式にPrPscが増えてゆく結果,脳内の神経細胞はPrPscでいっぱいになってしまい発症にいたるというモデルである.一方,ワイスマン(C. Weissmann)力1提出している統合仮説(unified hypothesis)においては, PrPSctこ加えて,病態を修飾する仮想の核酸であるコープリオンが重要な役割を果たす.感染の主体はプリオンではなく,コープリオンという核酸であるため,従来の常識である核酸による感染機序に従う.そのため感染原理はウイルスなどと同じものとなる.プリオン仮説が現在では主流であるが統合仮説が否定されているわけではない.

 ヒトにもある狂牛病  

 

 狂牛病はウシが気が触れたかのようによだれを垂らしてふらふらし,しだいに歩けなくなって死んでゆくという気味の悪い伝染病である.感染して死亡したウシの脳にはスポンジ状の孔が多数生じているところから,正式にはウシ海綿状脳症(BSE:bovine spongiform encephalitis)と呼ばれる.近年までは非常にまれであった狂牛病も1988年に英国で突然に多数のウシが発病しはじめ, 1992年をピークとしてこれまでに16万頭以上の発病が報告されるにいたって畜産業界に打撃を与える大きな社会問題となった.もっと深刻なのは狂牛病に感染したウシの肉を食べたヒトにも感染する疑いが濃くなったことである.英国で20歳代の青年が狂牛病と同じ症状で死ぬという事件が最近になって10例も続いたことは不気味な前兆であろうか.

 

 狂牛病とよく似た病気は,ヒツジが狂ったように毛をかきむしるスクレイピー(scrapie)として50年以上も前にすでに報告されていた.ヒツジのみでなく多くの草食性の家畜において類似の病気がまれにではあるが発見されており,病気にかかった動物の脳には間違いなくスポンジ状の孔が多数生じていたことから,これらは伝播性海綿状脳症(transmissible spongiform encephalopathy)と総称されていた.実はウシの間で最近このように狂牛病が蔓延した原因はスクレイピーで死んだヒツジの肉や臓物を乾燥飼料にしてウシの餌に混入させ,その餌を食べたウシがほとんど感染してしまったためである. 1989年までには英国政府が羊肉の混入された動物飼料を禁止し,感染牛を大量に消去Nするという措置を行ったおかげで狂牛病の発生は沈静化した.

 

 狂牛病様の病気はヒトにおいてもすでにいくつか報告されていた.パプアニューギニア高地原住民に発症する小脳性運動失調症のクールー病(Kuru disease)は,やはり脳にスポンジ状の孔が多数生じて運動失調を起こし,手足は震えながら死んでゆく(kuruとは現地語で“震える"を意味する).部族に特有の死者の脳を食するという祭礼習俗に伝播の病因があり,それを廃止させたところ発病は治まった.ガジュセック(D. C. Gajdusek)らはクールー病患者の脳組織をチンパンジーの脳に接種することにより特徴的な海綿状脳を伝播させることに成功し,この病気が伝染性であることをはじめて証明した.

 ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD : Creutzfeld卜Jacob disease)も100万人に1人というまれな進行性痴呆症として報告されていた. CJDの患者は60歳を超えて痴呆症状を発症し,遺伝よりも出生後の遺伝子変異,あるいは感染が疑われているが,地域や家族内に集積するという報告もある.また硬膜移植,角膜移植,脳外科手術などにより感染したヶ-スも世界中で数十例ほど報告されている.一方,同様な症状を呈するグレストマン・ストラウスル症候群(GSS:Grestmann-Straussle syndrome)は稀少な特定家系に優性遺伝する小脳性運動失語症である.いずれも発症までに長い潜伏期間(5~10年)を示す遅発性感染症であるため従来は遅発性ウイルスの感染が疑われていた.またアルパー(Alper)病も遺伝的に小児に特発するきわめてまれな脳変性病患である.発病後はいずれも亜急性進行性となって患者脳組織は海綿のように変性して死亡する.

細胞周期のチェックポイントとがん

 

 それではなぜ,がん細胞において染色体がかくも不安定になっているのであろうか.その謎を解く鍵となるヒントが, 1989年,ハートウェル(Hartwell)によってはじめて提唱された細胞周期のチェックポイント(checkpoint)という概念に隠されている.チェックポイントの研究は1990年代に入って酵母で研究が急速に展開されはしめたぽかりで,いまだ五里霧中の状態であり,哺乳動物細胞のチェックポイントの研究にいたっては始まったばかりである.したがってがんとのかかわりについてもデータは少ないが,がん細胞特有の細胞分裂における染色体の欠失という現象を理解する上では避けて通ることのできない概念であることは確かである.

 

 真核生物の細胞は1回の細胞周期を経て1回だけDNAを複製して細胞分裂を行う.1回の細胞周期は形態上の変化の乏しい間期(interphase)と,わずか30分間くらいの短い時間帯にダイナミックな形態上の変化を起こして分裂する有糸分裂期(M期; mitosis)という2つの基本プロセスに分けられる.間期はさらにGi (gap 1)期, S(DNA synthesis)期, G2 (gap 2)期の3つの特徴的な時期に分けられる.細胞周期はかくしてGI→S→G2→M→G1というように規則正しく循環するがこの逆向きには決して進行しない.動物培養細胞では通常の細胞周期は0,(6~工2時間), S(6~8時間), G2 (3~4時間), M(0.5~1時間)というスケジュールで進む.

 

 DNAの複製と分配(有糸分裂)の過程は,遺伝情報を正確に分裂後の細胞に伝達するという意味でとくに重要である.チェックポイントはこの過程を正確に進行させるために細胞に設定された監視点で,そこで作用するチェックポイント因子は作用機序の違いによって次の3つに大別できる.0異常をモニターして検出する検索因子(センサーI sensor/detector), c検出した異常を修復装置に伝える仲介因子(mediator), c修復あるいは破壊を実際に行う作動因子(effector).  チェックポイントは細胞周期のいくつかの時点で設定されているが,がんとの関連でとくに重要なのは以下の3つのチェックポイントである. cDNA損傷などを検知してG1後期に細胞周期停止を起こすG1期チェックポイント,@S期の開始・遅延・完了あるいはDNA損傷を検知してG,期停止を起こすことでM期開始を制御するS/Mチェックポイント,@染色体の凝縮・分配と細胞質分裂を連動させるM期チェックポイント.

 

 0に分類される典型的な例としてがん抑制遺伝子のp53があげられる.X線などによりDNAが損傷されたままS期に侵入すると,異常になった塩基がそのまま複製してしまい,がん細胞が生じる原因となる.p53の役割は,それを防ぐためにp21と呼ばれる阻害タンパクを発現誘導して細胞周期をG1期の後期で停止させ,その間に自らDNA修復反応に携わることである.もし修復不能なほどにDNAが損傷を受けていた場合には,細胞死(アポトーシス; apoptosis)のスイッチを押して異常細胞を殺してしまうという,もう1つの重要な役割もp53は担っている.p53は特定の遺伝子の転写を制御している転写制御因子で,それらの標的遺伝子は細胞周期や細胞死(アポトーシス)において重要な役割を果たしているものが多い.このように1つのタンパク質で重要な役割をいくつも果たしているため,いったんp53が欠損してしまうと,その細胞は高い確率で無制御のがん細胞と化してしまうのである.臨床的には多くのがん患者のがん細胞で高い頻度でp53の欠失が報告されている.

 

 @に分類される例としては常染色体劣性遺伝性病患である毛細血管拡張性運動失調(AT : ataxia telangiectasia)の原因遺伝子, ATM (AT mutated)があげられる.患者は発がん率の増加を起こすのみでなく,小脳性運動失調(ataxia),毛細血管拡張症(telangiectasia),精神遅滞,免疫不全,早老症状など幅広い症状を呈する. ATMはリン酸基をホスファチジルイノシトール(PI:phospholipid phosphatidylinositol)へ転移するキナーゼ類が分類されるPIK(PI kinase)ファミリーに属する巨大なタンパク質キナーゼ(3056 a.a.)である.AT患者の細胞ではDNA損傷のある状態ではDNA複製を制御できず,染色体の不安定性も観察される.ATMがp53を標的としてリン酸化し, p53を活性化するという可能性も指摘されている. ATMと類似なタンパク質であるFRP1(FRAP-related protein)も@に分類される例で,欠損すると変異原(X線,紫外線など)に感受性となるが,臨床的なかかわりは薄い. DNA依存性タンパク質キナーゼの触媒サブユニット(catalytic subunit)であるDNA-PKcsもATMと構造が類似したタンパク質キナーゼである. DNA PKcsはKuという名のタンパク質を伴ってDNA損傷を認識し,傷(nickやgap)を持つDNAと結合してキナーゼ活性を現し,転写因子をリン酸化する.欠損すると細胞は放射線に感受性となり,修復機能が欠如する.

 

 @については酵母で研究が進んでいるものの,哺乳動物細胞では未知の部分が多く残されている.細胞はS/Mチェックポイント機構を無事に通過すると,まず核膜が崩壊し,それまで核内に分散していた染色体は紡錘体に引っ張られる前に凝縮してサイズが小さくなる.チェックポイント機構がうまくはたらかないとDNA合成の完了を待たずに染色体が凝縮する末成熟染色体凝縮(PCC:pre-mature chromosome condensation)という現象が起こり,その結果として染色体の脱落,欠損という悪性度の高いがん細胞の特徴を帯びてくる.染色体凝縮を制御するチェックポイント因子であるRCC I が欠損すると,細胞はS期未完了の状態のまま染色体凝縮を起こしてM期に進入する.この現象を未成熟有糸分裂(premature initiation of mitosis)と呼ぶ.臨床的ながんとのかかわりはまだ報告されていないが,がんの悪性イ[Sと染色体の不安定化をどのように結びつけるか興味深い.

 がん抑制遺伝子

 

 一方,細胞の増殖を抑制するタンパク質をコードする遺伝子が異常を起こすことでがん化させるタイプのがん遺伝子もみつかってきた.それらはがん抑制遺伝子と総称される正常細胞において,遺伝的にあるいは環境の作用によってがん抑制遺伝子が欠損すると,増殖抑制がきかなくなり無秩序な細胞増殖が始まる.このとき,両親から受け継いだ1対の相同染色体の両方のがん抑制遺伝子が欠損しないかぎり抑制作用は残る.つまりがん抑制遺伝子は劣性がん遺伝子(recessive oncogene)と呼ぶこともできる.

 

 がん抑制遺伝子の概念自体は,ある種のがん細胞と正常細胞を融合させると正常細胞に戻るという細胞融合実験によって1970年代にはすでに提出されていた.がん細胞では特定の遺伝子が欠失しており,その結果失われた機能(loss of function)が正常細胞の相同な遺伝子によって相補されたと解釈されたのである.

 

 がん抑制遺伝子の最初の実例は1980年代に入って,小児の眼に腫瘍が生じる網膜芽細胞胚(Rb : retinoblastoma)という,まれな遺伝性のがんの原因遺伝子(.Rb)として発見された.発がん家系の遺伝子連鎖解析と染色体欠失の解析から網膜芽細胞胚の発生にはRbが配座する染色体領域(13 q 14)の欠失が密接にかかわっていることが示されたのである.患者は先天的に13 q 14 の欠失を片方の親から受け継いでいるが,もう一方の親の正常Rbのおかげで腫瘍は発生しない.ところが後天的にもう一方の正常Rbに変異が起こると確実に網膜芽細胞腫が生じてしまう(これをツーヒットモデルと呼ぶ).この領域は変異が起こりやすく,平均14ヵ月という若い発症平均年齢で患者は両眼に腫瘍を起こしてしまう.網膜芽細胞胚には非遺伝性のものもあり,その場合は両染色体のRb座位に変異が重ならなければならないせいか,発症年齢は遅くなり腫瘍も片眼に起こることが多い.Rbの塩基配列が決定され,Rbタンパクの機能が調べられた結果,Rb夕ンパクは核内に存在し細胞周期制御に深くかかわっていることがわかっている.

 

 これ以降,がん抑制遺伝子の実例は着実に増加してきた.これらがん抑制遺伝子においてはヘテロ接合性の喪失(LOH: loss of heterozygosity)という現象が観察されるため,染色体欠失のよい診断指標となっている.ヘテロ接合性とは両親から受け継いだ相同遺伝子の構造が微妙に異なる現象のことで,適切なグローブの選択によってRFLP を用いて2本のバンドとして検出することができる.LOHとぽかん抑制遺伝子の欠失が原因で起こるがんの場合に,そのがん抑制遺伝子をプローブとしてRFLPを検索すると,この2本あるべきバンドの一方が喪失して1本のバンドしか見いたされなくなっている現象である.

 

ほかのがんでも類似の過程が進んでゆくと考えられている.ない点である.かわりに数少ないがん抑制遺伝子が,多くのがん患者のがん細胞で高頻度に欠失している.この事実は,がん遺伝子の機能解明以上にがん抑制遺伝子の機能解明が臨床的に重要ながんの治療と予防において大切であろうことを示唆している.さらにがんにおける染色体の不安定性の原因を究明することが,今後のがん研究における重要なポイントであることを示している.